幸福に生きるための「7つの習慣」の3番日は、恨みはその日のうちに捨てること、と紹介しました。ここでは、怒りにどう対処するかについて紹介しますが、その諸原則に従えば、うつはけっして悪化しないでしょう(もちろん遺伝的、内科的な要因がなければ)。
1.あなたの怒りが適切か、不適切かを分析する
自分自身、友人、その他だれかに怒りを感じているときは、その怒りが適切か、不適切かを分析すれば、怒りによく村処でき、なぜ自分が怒りを感じたかの洞察も得られるでしょう。
ある怒りは、私たちを傷つけた人に村する極めて適切な反応(正当な憤慨)でしょう。
たとえば、ゴシップやうそをでっちあげる人たちなどに対して、怒りが生じるのは、当然のことと言えます。しかし、怒りの多くは不適切です。不適切な怒りには、3つの原因があります。
- 1.自分の自己中心的な欲求が満たされないゆえの怒り
- わがままは不適切な怒りの大半の原因です。わがままがすぎるほどに、怒りはますます増大します。そして、恨みを翌日に持ち越すことはうつの一大要因であるため、深刻なうつの問題を抱えるでしょう。
- 2.完全主義的期待が満たされない場合に出てくる怒り
- 完全主義者(強迫性人格)は自他ともに、多くを期待しすぎています。その結果、彼らはよく自他(たいていは自分自身) に恨みを持ちます。国際的に認められている10の人格タイプのなかで、完全主義者が一番うつの率が高いのです。
- 3.疑惑から出る怒り
- 妄想を持ちやすい人格傾向がある場合、よく人の意図を誤解します。ある人が本人のことに気づかないとすると、わざと避けられているのだと決めつけるのです。また、親近感を得ようとしてちょっとからかったりしようものなら、その「友だち」は自分をばかにする気だと思ってしまいます。こうした妄想的な傾向がある人は、自分の抑圧された怒りに盲目で、それを人に投影し、人も自分に怒りを持っているとかんちがいしてしまうのです。
つまり、自分の中に相当の抑圧された怒りがたまっているために、ある人のしたことが自分の犯した罪をあまりに想起させるので、ささいなことで激怒したりするのです。
自分が怒りを抱く対象の人というのは、おそらく自分と似た人格のタイプである可能性が高いのです。
私たち人間は、自分の非をごまかすために、だれか同じょうな欠点を持った人がやつてくると、その人に対してわけもなく否定的な反応をしてしまいがちなのです。人間はみなこのようなことをしますが、とりわけ妄想を抱きやすい人格の人はその傾向が強いのです。ここでまとめましょう。不適切な怒りの主要な3つの原因は、
- 自己中心性
- 完全主義
- 疑惑
です。
怒りが適切か不適切かを正しく洞察することがいかに婁か、明らかになったかと思います。願わくば、自分のわがまま、疑惑、完墜を期待するなどの多くを取り除くことができれば、怒りの大半はなくなることでしょう。
洞察力を得ることは、うつを克服するのにも大きな助けになります。もちろん、第1ステップは自分が怒っていることを認識することです。
怒りは、個人がその存在を認識しないことには向き合いがたいものですし、またある状況で、人がなぜそんなに怒りを出すのかを理解することもまた、次に怒りをコントロールし、処理するのに役立ちます。
たとえば、友達に軽くあしらわれたようなときに極端にかっとなるとします。現実の出来事とは思えないような怒りを出すのなら、それは奪感、力量不足感を感じた別の場面のことを想起したためかもしれません。
現在の出来事が、こうした過去の感情、不安定さ、いわば地中に埋まっている地雷を刺激、強化したのです。おそらく反応の25% は現在の状況への、そして75% はずっと昔に抑圧した感情への反応でしょう。
同様に、自分の人格を正しく洞察することができれば、怒りやうつもより良くコントロールできるようになります。そうたとえば、循環気質性人格 の人が自分の操うつパターンの洞察を得れば、そしてどのくらいの頻度で人に拒否されたと感じて腹を立てるかがわかれば、次からは不適切な怒りをコントロールできるようになります。
また、強迫性人格、完全主義者の人が、過剰に厳しい見方で人(また自分も)を見ていることに気づけば、今後は不適切な怒りをコントロールできるようになるでしょう。ヒステリックな人が自分が過剰に感情的になる傾向があることに気づき、一瞬のうちに敵意を抱くことを理解すれば、不適切(自己中心の) な怒りをコントロールする助けになります。
個人の子ども時代の洞察や、それが現在にどう影響しているかということの洞察は、現在の怒り、うつを克服するのに大きな助けとなります。同様に、現在の人格傾向の洞察もまた、怒り、うつの克服の助けとなります。しかし、注意しなくてはならないのは、洞察は危険でもあるということです。
本人が処理できない状態のときの急激な洞察は危険です。洞察をあまりに急激に行なった場合、現実の痛みを持ち抱えるために混乱してしまうこともあります。こうした状態のときには、彼らは非現実のなかに生きるため、洞察は遮断されています。
洞察は注意深く与えられ、用いられなくてはなりません。
2.怒りを口に出してみる
もし自分の怒りが適切だと確信できるなら、この怒りを何とかしてロに出すことです。そして、相手と仲直りをしましょう。私たちが相手に怒りを持っていなくとも、相手が自分に怒りを持っていれば、やはりその人のところに出向いて行き、仲直りすることは私たちの責任だと言えます。
そうするには、大きな勇気と豊かな変が必要です。私たちが怒りを口に出す心理的な利点を以下にあげてみましょう。
- 怒りを抑圧して、なぜこんなにイライラしたり、落ちこんだりするのかといぶかるのでなく、
私たちが真実、すなわち自分が本当に怒っていることに気づくのに役立ちます。
- 怒りを口に出さずにだれかを許すことは可能ですが、怒りをその人の前に出すことで、たとえ相手が私たちの怒りが不適切であると考えたとしても、ずいぶん楽になります。相手がどんな反応をしようとも、私たちは相手を許さなくてはなりません。人の罪のためになぜ自分がうつを患わなくてはいけないのでしょう? それはばかげています。怒りを口に出して、相手が許しに催するかしないかにかかわらず、相手を許すべきです。
- 私たちが怒りをうまく口に出す(真実を言う)ことができれば、相手に問題を自覚させることができます。それには怒りをうまく口に出さなくてはなりません。怒りを口に出す意図はつねに相手と仲直りするためであるべきで、けっして恨みを晴らすためのものであってはなりません。
- 怒りをうまく口に出すことは、結婚や友情をよりいっそう親密なものにします。怒りを口に出さないと、人間の本性上、受動攻撃的な(そして普通、無意識の)方法、たとえばふくれっ面、だらだらと後回しにする、夕食を焦がす、セックスの場面になると頭痛がする、遅く帰宅したり、遅くなることを電話しないなど、言葉以外の方法で怒りを見せるはめになることはほぼ確実です。
- 怒りをうまく表すと、相手はたいていの場合、私たちが、(a)率直で、(b) 感情をきちんとコントロールしていて、(c) 責任もって怒りに対処しているために、以前にもまして私たちを尊敬するようになります。
- ゴシップになるのを防ぎます。自分が怒りを感じているのにその相手に怒りを表現しないと、第三者にその人のことを言いつけたくなる誘惑が圧倒的に大きくなります。衝突を解決する、あるいは少なくともオープンに衝突を認め合えば、私たちが相手のゴシップの種になることも防げます。
ここでふれたことを度を越して実行されないように、ひとつ明らかにしておかなくてはいけないことがあります。
つまり、少しでも怒りを感じたときは、すべてその怒りを口に出すようにしなさいと言っているのではないということです。この点は自分の判断で、現実的であるべきです。
たとえば、アメリカの大統領が何か自分の気にいらない意思決定をしたのがちょっと腹立たしいからといって、大統領に電話したりはしないでしょう。上司に怒りがあるなら、そしてそれを口に出すことによってあなたがクビになるなら、上司にではなく、だれか別の人に話を聞いてもらって、上司を許すための助けを得るようにしたほうがいいでしょう。
またある場合は、上司にうまく怒りを伝えたり、大統領の決定事項に対して抗議の電報を送ったりすることが極めて適切な場合もあるでしょう。
要するに、自分の判断を使って行動することです。上司への怒りを、のちに妻と話し合うことで問題の本質に焦点を当てることができ、それによって許しを選ぼうと思えるようになるかもしれません。
ジョギングをしたりテニスボールを打ったりするなど、怒りを体で出すことで、怒りがより明確になって許しを可能にしてくれるでしょう。
ただし、運動はいい方法ですが、運動だけに怒りを出さないように注意してください。フットボールのようなスポーツを見ることでも、象徴的に怒りの一部分を出す助けになります。しかしそれだけでは十分ではありません。
もし恨みを長い間抱えていれば、うつになるのはこ当然です。脳セロトニン、ノルエピネフリンも、「恨みのレベル」が長期に、多量になれば枯かつ渇してしまいます。
その期間と量には個人差があります。怒りを口に出す2つの対称的な方法についてふれましょう。怒りを表現するには2つの極端な方法があります。ひとつは攻撃的、もうひとつは受動的な方法です。自分が怒りで攻撃的になっているとき、私たちはその感情を自分から出して、それをだれかを犠牲にして吐き出します。
相手の性格、個人攻撃をするのです。もうひとつの極端な方法は受動的な方法で、その場合、私たちは自分が感じるようには表現せずに、たとえばものごとをだらだらと先のばしにするとか、だんまりを決めこむとか、いい加減な仕事ですませるとか、人に自分の生き方を任せて、かつ同時にそれを恨むとか、本当はNoと言いたいのに意に反してYesと言ったりといった、無意識の受動的操作によって怒りを出します。
どちらの極端も健全ではありません。健全なバランスは、アサーティブであることです。すなわち、率直であるということです。アサーティブだと、感じるように感情を表現し、かつ愛と適切な方法をもって言いたいポイントを伝えられます。
YesはあくまでもYesで、NoはNoなのです。自分が立ち上がるべきもののために立ち上がり、大切だと思うことを求めます。
例を出すとわかりやすいでしょう。だれかが私たちの感情を傷つけたとします。私たちが攻撃的だと、相手を個人攻撃して、その人を侮辱するようなことを口にすることで相手の人格を攻撃します。受動的なら、何も言いはしないのですが、単にこのことに関してふくれっ面を見せる(そしておそらく本人のいないところで陰口をたたく) でしょう。
ではアサーティブならどうかというと、本人のところへ行って、このように伝えます。「あなたが言ったことで怒りを感じているけれど、何とか話し合って解決したいので、時間をとってくれませんか? 」となります。どんなに怒りを口にしても、許さなくてはならないことを忘れないでください。許しは意思から始まる、選択の問題です。そこに達するまでに時間がかかるかもしれません。感情は容易に水に流せるものではありません。
私たちのコンピューターをプログラムし直すには時間がかかります。感情を再プログラムするのも同じです。しかし、許すのだという意思はすぐにおこせます。ここが大切なところです。
また、許しはすべてのあやまちを帳消しにすることでもないということも大切です。そうではなく、だれかの罪状に攻撃をしかけないということです。もし許すことがすべてをなかったことにして忘れることだと考えるなら、大変なことになります。許すとは、人の罪をもはや問わないよう心に決めることを意味するのです。基本的に怒りと許しの村象である相手は、五つのグループに分けることができます。
- まずは親です。親への抑圧された怒りはよく見られます。私たちもまた、子どもを育てるの
にミスを犯した親を許さなくてはなりません。親が私たちの許しに催するか、しないかは別としてです。
- 次に、私たちは自分自身を許さなくてはなりません。人に腹が立つのと同様に、あのときああすれば、こうしたらよかったのに… と自分に怒りを抱きます。人に対するよりも自分自身に批判的で、厳しくあたります。過去のミス、罪については自分を許さなくてはなりません。
- 3番目に、私たちは神への抑圧された怒りと向き合わなくてはなりません。神を許すのではありません。そうではなく、神への抑圧された怒り、苦い感情を持っているかもしれないということです。無意識に内← 、次のように言っているかもしれません。「神がもし本当に私を見守っていてくださるというのなら、あの状況だって防げたはずだし、何とかしてくれることができたはずだ」と。私たちは神への怒りを告白し、それに関して神と話をし、何とか折り合いをつけなくてはなりません。
- 4番目に、伴侶への抑圧された怒りと向き合わなくてはなりません。伴侶がなしたあやまちを許す必要があります。だれでも2人の人間がいっしょに住むと、多くの怒りが出てくる状況がおこり、怒りが数年間にわたって蓄積されます。うつを防ぐには伴侶を許す必要があります。
- 5番目は、その他の人々です。このグループには若いころの仲間たちなども含まれるかもしれません。多くの状況がおこって、抑圧された怒りがまだそのままになっている場合があるでしょう。怒りを告白し、相手を許す必要があります。
怒りをコントロールするいい方法のひとつは、成長を続けることです。成長すれば、怒りの多くがおのずと解消され、よって、私たちはより幸せで健康な人間になれます。怒りを分析した結果、怒りが不適切だった(自分の自己中心性、完全主義、疑惑ゆえのもの)とわかったなら、不適切な怒りを口に出すことはおそらく必要ないでしょう。しかし、不適当な怒りでも口に出すことが役に立つこともあります。
その例を見てみましょう。「○○さん、しばらく前まで私はあなたに怒りを感じていました。それでそのことに関して祈り、分析してみたのです。2時間ほど考えてみたところ、自分の完全主義が手に負えなくなっていたことに気づきました。あなたが完蟹であることを期待し、すべてを私の期待どおりにあなたがしなかったことに腹を立てたのです。
そんな私を許してくれますか? あなたが私を友人として求めてくれるなら、私のこの心の狭さにがまんしてもらうことになるかもしれません」。前述したように、不適切な怒りを出すもっとも良い方法は、不適切な怒りの元(わがまま、完全主義、疑惑) を断つことです。
3.報復したい、という気持ちを手放す
怒りをとどめておく(恨みを持つ) 無意識の動機はたったひとつしかありません。それは復讐です。最近、ある患者が過去3年間のうつの原因をさぐろうとオフィスにやってきました。「3年前、つまりうつが始まる前に、だれかに怒りをためていましたか? 」と聞くと、最初はその質問に驚いていた彼が、考えて1分もたたないうちに怒りを表に出し始めました。
首にはできもののようなものがいっぱいできていて、赤くなっており、瞳は開き、指はだんだん力が入って拳になっていきました。
彼は3年前、彼がやってもいないのにカンニングをしたと大学の仲間たちの前で決めつけた女性教師のことを、罵言を含め、明らかな敵意をみなぎらせて語りました。
「その教師をなぜ許さないのですか? そうすればうつが良くなるのに」と聞くと、彼は怒りながら「そんなこと絶村にあり得ませんよ。死ぬまでけっして許せませんね。許す価値もないですよ」と言いました。そこで少し、そのことがいかにばかげているかを指摘するのに、少し刺激を与えるのが適切であると思われました。
それで「いやあ、たいした仕返しですねえ。そのために3年間もうつ状態だなんて。はたしてその価値はあるんでしょうか? そもそも彼女はあなたのこと、覚えてますかね? 」と言いました。ここはうつのメカニズム(恨みを抱くとその人自身の中でどんな生物化学的変化がおこるか) を彼に説明するのにも絶好の好機でした。
教師を許す(彼女が実際許しに催しないにもかかわらず) ようになると、これまで3年もおおいかぶさっていた彼のうつは、ほんの数週間で消えていきました。復讐は愚かな動機です。個人的復讐はまったく不必要、かつ愚かです。復讐するか、恩寵を見せるかは神が決めることです。私たちの出番ではありません。神の邪魔をしないことです。
私たち人間は、いろいろな方法でたとえば人を裁いたり、復讐しようとしたりして、人生の半分を神を演じようとしてすごします。なんと愚かなことでしょう。もちろん人間は少しばかり動物より頭が良くて幸いですが、自分をあまりに落ちこませるあまり、自殺するのは人間だけなのです。
さて、使徒パウロがローマ人への手紙で、復讐について言っていることを見てみましょう。だれに対しても悪をもつて悪に報いず、すべての人に村して善を図りなさい。あなた方は、できるかぎりすべての人と平和にすごしなさい。愛する者たちよ、自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りにまかせなさい。
なぜなら、「主が言われる。復讐は私のすることである。私自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食ゎせ、乾くなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火をつむことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさヽ一〇しY相手が間違ったことをしたときだけ相手を許し、自分がミスを犯したときに自分を許しさえすれば、私たちはけつしてうつの苦しみを味わわなくていいのです。まとめましょう。怒りに向き合うには3つの方法があります。
- 自分の怒りが適切か、不適切かの正しい洞察を得る
- 重要で、適切な怒りを口に出し、就寝前に許す
- けっして人に仕返しをしない。
多くの読者がこの原則を実践してくださることが私たちの願いです。幸福は自分で選びとるものだからです。