不安感に襲われたとき、どう対処すればいいか?

不安は多くの人をつまずかせます。しかも私たちはみな、ときに不安を覚えます。不安はうつをともなうことがよくあり、そわそわ感、どきどき、ひどい気おくれ、心細さ、緊張感、落ち着きのなさ、心配などの特徴があります。不安な人はよく不幸、危険、悲運を予期します。

不安の症状

不安な人は過剰に警戒し、イライラ、そわそわし、依存的です。おしゃべりになったり、入眠困難になることもあります。入眠困難になると眠ろうとベッドに入ってもなかなか眠れず、30分~60分以上眠れない場合があります。

集中力が欠如し、記憶力も働きません。不安にかられるあまり、動きがとれないかもしれません。

また、不安な人は過剰な発汗、筋肉のはり、緊張、頭痛、声の震え、大きなため息、腹部の痛み、吐き気、下痢、胃のあたりが落ち着かない感じ、高血圧、動悸、失神、頻尿、冷感症などが見られます。

不安は精神科領域で扱う問題の原因の大半となっています。これは神経症、精神病、精神生理学的問題の原因です。

それほど危険でも脅威でもない場面や事柄に村して、恐れる理由がないと知りつつ激しく恐れ、これを避けようとします。

自分が許されがたい罪を犯したと思っている人の真の原因となっています。心理学も、不安が正常、異常の両方でおこることがあることを指摘しています。

心理学者は長い間、人が何らかの不安があるときのほうが効率的かつ生産性が高いと言っています。しかし不安が強烈になると、効率もそれにしたがって低下します。強烈な不安は健康ではありません。新約聖書には、「不安」と訳されるギリシャ語が25回ほど出てきます。これは普通、否定形のなかで使われますが、しかし、ときには肯定的にも(現実的懸念) 使われます。

不安の原因

不安には多くの原因があります。そのひとつとして無意識の内的な精神的葛藤があげられます。つまり、不安は普通、自分の思考、感情、動機の真実を見つめることへの恐れからおこるものです。

ときとして私たちの心は、現実を押しこめようとします。私たちの心の緊張が、まさに不安なのです。それは(不安な親から) 例を学んだことによるものかもしれないし、子ども時代の葛藤に根を発する、または現在の問題によるものかもしれません。不安であることに不安なのかもしれません。あるいは劣等感、貧困、病気への恐れなどから来ているのかもしれません。

多くの人は、幼児期に不安をかりたてる経験をしています。悪い経験に満ちた、極めてストレスの多い幼児期をすごすと、あとで相当不安に苦しむことになります。この不安の多くは、それが表れてきたときに対処されずに、無意識に押しこめられています。ペンフィールドという脳神経外科医が、脳の機能は高音質のハイファイテープレコーダーやCD のようであることを発見したことを述べました。

脳はまるで記憶装置のあるコンピューターのように機能するのです。脳のあるエリアを電極で触ると、本人はときに何か特定の出来事を思い出したり、またそうした出来事に付随している感情を思い出したり、またとくに具体的な出来事を思い出すわけでもないのに、高揚、うつなどの感情を思い出したりします。

この実験結果からペンフィールドは、特定の記憶や感情は記録され、蓄積され、またそれらはそれが実際起こったときと同じく鮮明に再演されうると結論したのです。これらは現在のストレスによって出てきます。現在、不安をひきおこされるような状況、経験に出会うと、幼児期からの不安にかりたてられます。

それは子ども時代の感情であって、特定の出来事は思い出せないことが多いのです。抑圧された感情が現在の状況にも同じようにあてはまることは実際にはないのですが、そのように過去と現在を重ね合わせてしまうのです。

すると、私たちがなぜ現在の状況に過剰反応してしまうかがよく説明できます。私たちは現在の状況に反応しているのみならず、また同時に子ども時代の抑圧された感情にも反応しているのです。すると現在の状況からの不安は、部分的、無意識に抑圧され、強迫的心配や恐怖症にも貢献しているのかもしれません。

そしてそれが内在化されるとうつになるのです。本人が不安であることに対して不安を感じることによって、または本人が持っている特定の恐怖症や強迫観念に関する不安が出てくれば、あるいはうつ状態であることに対して不安が出てくれば、さらなる不安が生じてくる可能性があります。

不安を少なくするための( 聖書が教える )行動パターン

不安を克服するための方法が重要となります。

1.肯定的な考えについて黙想する
心配症の人によく私たちは「心配するのはよして、リラックスしよう。不安はリラックスのための合図だ。さあ、リラックスしよう」と言って指導しています。そしてこれを何度もくりかえしてもらいます。不安は普通、よりいっそうの不安が募る合図なのですが、しかしこうし0た単純な行動修正によって、脳は不安をリラックスのための合図とするよう条件づけることが16できます。
2.神の意にかなう行為に焦点を当てる
不安な人に私たちはよく言います。罪を避けること、小さいフェローシップ(仲間)の集まりに参加すること。
3.満足できることに専念する
自分の満足感を大切にします。
4.貧困の恐れを取り除く
貧困は不安を招く原因になります。神は私たちが必要とするすべてのものを提供すると約束しています(私たちがほしいものすべてでなく)。
5.神の恩寵が自分とともにあることを知る
神のめぐみ・いつくしみを信じます。
6.音楽を聞く
音楽はリラックスに欠かせません。
7.適度な運動をする
理想的には1回20分、週に3回。適切な運動については医師と相談します。活発な運動は血中にエンドルフィンを放出し、幸福感を増し、エネルギッシュにしてくれます。
8.十分な睡眠をとる
大半の人は一晩8時間の睡眠を必要とします。眠れない場合はこちら
9.不安をおこす問題と向き合うために自分でできることをする
いろいろな方法を変えてみて、解決方法を探り、試みます。
10.話すことで開放される
少なくとも週に1回は自分の欲求不満について親しい人に話しましょう。
11.適切なレクレーションをする
できれば週に2~3回おこないます。脳にも体にもいい影響を与えます。
12.その日1日だけを十分に生きる
おそらく私たちが不安に思っている、あるいは心配している98% のことは、実際にはおこらないでしょう。今日1日を生きる術は、しだいに学びとり、うまくできるようになります。
13.先のことを考える
最悪の場合、何がおこりうるか考える。するとそれもそれほどは悪くないことがわかります。
14.先延ばしにいいことはない
ものごとを先のばしにしない。そうするほどに不安が増すのです。

抗うつ薬と入院が必要なケース 入院治療のメリット・デメリット

抗うつ薬は使うべきでしょうか? 答える人にもっよるのですが、NOと答える人もいます。

必要な状況では抗うつ剤は使っても、薬だけに頼らないほうがよいと答えます。ペニシリンが発見されたときも、多くの人がその効果を信じようとしなかったために亡くなりました。

私たちも、過去数年の間にガンの手術を拒否したために亡くなった人たちを数人知っています。有名大学の学生自治会会長が、州議会にレアトリル(杏などの核から製する制ガン剤)を合法化するように一人説得しているうちに、1977年、ガンで亡くなりました。多くの奇跡を神がおこしたからといって、神が奇跡をおこして病気を治すか、まったくそれはあり得ないかのどちらかだとする主張をそれで正当化できるでしょうか?

誇大妄想的人格でもなければ、超自然治癒は強要できません。今日、たしかに神はまれに、ある人々に超自然の治癒を与えますが、大半の人々は医療技術、投薬による常識の応用によって治るのです。

糖尿病患者で、インスリン注射が毎日必要な人はそうすべきでしょうか? それとも自分がいかに勇敢で極めて秀でていることを証明するために、インスリンを拒否して、2日のうちに昏睡状態におちいって死んでしまうべきでしょうか?

はっきり言えることは、もし自分がいかに勇敢で、秀でていることを証明したいのなら、そうやって死ぬのもいいでしょうが、しかし、私たちは生きるほうを選ぶということです。

神は私たちに与えられた常識を使うことも、また期待しておられるのだと信じます。うつよりも幸福を選ぶのです。

さて、抗うつ薬は使うべきでしょうか? ある状況下ではもちろんです。患者がうつ状態で、不眠や自殺願望を訴えてやってくると、3つの方法で治療します。

ひとつは処方薬なしで毎週の面接治療を続けることで、これだとうつは平均して6~12ヶ月で(もし最初の2ヶ月の、睡眠障害やひどい感情的な痛みを患っているときに自殺しなければ) 治ります。

もうひとつは、毎週の精神療法とあわせて抗うつ薬を出すことです。この場合だと、おそらく3~6ヶ月でうつがなくなるでしょう。

抗うつ薬を出してから最初の10日でよく眠れるようになり、また感情の改善が見られるようになり、自殺のリスクは低くなります。

3番目の方法は、入院型のプログラム。総合病院の精神科に入院していただき、毎日精神療法と投薬を続ければ1週間以内で楽になり、うつも3~6週間でなくなり、そのあと外来ベースで1~2か月の精神療法を続けるだけで良くなります。もし患者が4人の子持ちで、何ヶ月もうつのせいでつらい思いをしているのだとしたら、どのやり方が一番良いでしょうか?

自殺が現実味を増しているときに、子どもを父親なし(母親なし) にすることによって、感情的な深い傷を残す可能性を前にして、どの選択がもっとも適切でしょうか?

私たちなら、もしうつ本人が自殺のリスクがあるか、現実から逃れる(精神病的うつ) 危険カがあれば、入院はほぼ必須だと考えます。人命の賭けをする必要はありません。あまりにうつがひどく、生活上の支障がおきている場合、しかし自殺や現実から逃れる危険がない場合は、投薬しながらの外来精神療法がベストでしょう。

薬は使わなかったとあとで自慢するためにどうして3~6ヶ月もさらにうつを引きずる必要がありましょうか?

軽度のうつなら、薬は高価ですし、口が渇く、車の運転時に反応が鈍るなど、軽度の一時的副作用がありますので、投薬はしないほうがいいでしょう。

入院治療のメリット・デメリット

深刻なうつの場合の入院の利点は、以下のようにまとめることができます。

  1. 患者は集中的精神療法が受けられる。
  2. すぐに投薬調整が行なえる。
  3. ストレスの環境から安全な環境へ逃れられる。
  4. 病院の自殺防止システムにより保護される。
  5. 和やかな、サポートしあう、雰囲気がある。
  6. 改善していく他のうつの患者たちと知り合えることが勇気づけになる。
  7. うつの症状、感情的つらさがみるみるうちに改善する。
  8. 訓練された精神科看護師、他のスタッフらが精神科医のカウンセリングなどをサポートし、患者が自らについて洞察を得ることの助けになる。
  9. 看護師が患者の行動パターンを毎日観察しており、この情報を精神科医に伝え、患者が洞察を得るのに役立つ。
  10. 入院は(長期的には)長引く通院よりも安上がりである。普通保険でカバーされるからである。また患者は、比較的容易に職場復帰できる。

入院の短所には以下のようなものがあります。

  1. 依存性の強い人のなかには、精神科医のいる病院に入院して、うつのふりをしていることで、さまざまな責任から逃れようとする者がいる。
  2. 精神科への入院に村して、社会的不名誉がついてまわることがある。昇給や求職を困難にすることがある。
  3. 患者が入院して3~6週間後に退院すると、本人はうつを克服して楽になり、生きることに熱意を持っているような態度になるが、周囲の人たちは最初、本人を傷つけてはいけないと恐れて入院体験を聞くことをはばかる。これを本人は、個人的な拒否ととらえてしまう。
  4. 保険がなければ入院は非常に高価で、1994年の統計では平均1日1000ドル程度かかる。保険があっても、医療費の負担額は高い。

うつの処方薬

インシュリンのショック療法(訳者注‥インシュリンを皮下または筋肉内に注射し、意図的に低血糖性昏睡を生じさせる治療法。妄想や興奮に効果があるとされていたが、近年は向精神薬療法が一般的)や、電気ショック療法(ECT 、ESTとも呼ばれる)(訳者注‥頭部に通電させ、脳機能を改善させる治療法。

うつや妄想に効果があると言われる)を使用することはありません。健康への悪影響の可能性があるし、多くの場合、これらはほんの一時的な軽減にしかならないためです。ショックセラピーは現在のうつを治すこともありますが、

しかし本人がまたうつにならないためにはどうしたらいいかを教えはしません。精神科医のなかには、抗うつ剤をいやがる自殺願望のある患者、改善が見られない患者にショック療法を使う人もいます。

普通はこれに外来の精神療法でフォローします。私たちはまた依存性のある処方薬も使いません。三環系抗うつ薬は依存性がありません。これらは毎日就寝時、150mg、普通6ヶ月、投薬します。

その後は、セロトニンレベルが平常化すれば、抗うつ剤の服用をやめても服用していたときと同じように楽になります。近年ではトフラニール、エラヴィル、シネカンなどよりもっと効果的な薬が出ていますが、私たちはあるタイプのうつには新薬といっしょにこれらの古い薬も使います。

古い抗うつ剤と同様に、これらにも依存性はありません。リウマチ、偏頭痛、繊維筋痛、腰痛、その他の内科の病気などの慢性的な痛みには、私たちはシネカンとパキシル、あるいはゾロフト、エフレクソール、プロザックなどをあわせて使います。なぜならこれらの薬は慢性の痛みをよりやわらげ、耐えられるレベルにしてくれる痛みの限界値を上げてくれるからです。

プロザックやゾロフトを使うと大半の人が週に一ポンドから数ポンド、体重が減ります。患者がやせすぎるようだったらこれらの投薬をやめなくてはいけません。

 

怒りがわいたときは

幸福に生きるための「7つの習慣」の3番日は、恨みはその日のうちに捨てること、と紹介しました。ここでは、怒りにどう対処するかについて紹介しますが、その諸原則に従えば、うつはけっして悪化しないでしょう(もちろん遺伝的、内科的な要因がなければ)。

1.あなたの怒りが適切か、不適切かを分析する

自分自身、友人、その他だれかに怒りを感じているときは、その怒りが適切か、不適切かを分析すれば、怒りによく村処でき、なぜ自分が怒りを感じたかの洞察も得られるでしょう。

ある怒りは、私たちを傷つけた人に村する極めて適切な反応(正当な憤慨)でしょう。

たとえば、ゴシップやうそをでっちあげる人たちなどに対して、怒りが生じるのは、当然のことと言えます。しかし、怒りの多くは不適切です。不適切な怒りには、3つの原因があります。

1.自分の自己中心的な欲求が満たされないゆえの怒り
わがままは不適切な怒りの大半の原因です。わがままがすぎるほどに、怒りはますます増大します。そして、恨みを翌日に持ち越すことはうつの一大要因であるため、深刻なうつの問題を抱えるでしょう。
2.完全主義的期待が満たされない場合に出てくる怒り
完全主義者(強迫性人格)は自他ともに、多くを期待しすぎています。その結果、彼らはよく自他(たいていは自分自身) に恨みを持ちます。国際的に認められている10の人格タイプのなかで、完全主義者が一番うつの率が高いのです。
3.疑惑から出る怒り
妄想を持ちやすい人格傾向がある場合、よく人の意図を誤解します。ある人が本人のことに気づかないとすると、わざと避けられているのだと決めつけるのです。また、親近感を得ようとしてちょっとからかったりしようものなら、その「友だち」は自分をばかにする気だと思ってしまいます。こうした妄想的な傾向がある人は、自分の抑圧された怒りに盲目で、それを人に投影し、人も自分に怒りを持っているとかんちがいしてしまうのです。

つまり、自分の中に相当の抑圧された怒りがたまっているために、ある人のしたことが自分の犯した罪をあまりに想起させるので、ささいなことで激怒したりするのです。
自分が怒りを抱く対象の人というのは、おそらく自分と似た人格のタイプである可能性が高いのです。

私たち人間は、自分の非をごまかすために、だれか同じょうな欠点を持った人がやつてくると、その人に対してわけもなく否定的な反応をしてしまいがちなのです。人間はみなこのようなことをしますが、とりわけ妄想を抱きやすい人格の人はその傾向が強いのです。ここでまとめましょう。不適切な怒りの主要な3つの原因は、

  1. 自己中心性
  2. 完全主義
  3. 疑惑

です。

怒りが適切か不適切かを正しく洞察することがいかに婁か、明らかになったかと思います。願わくば、自分のわがまま、疑惑、完墜を期待するなどの多くを取り除くことができれば、怒りの大半はなくなることでしょう。

洞察力を得ることは、うつを克服するのにも大きな助けになります。もちろん、第1ステップは自分が怒っていることを認識することです。

怒りは、個人がその存在を認識しないことには向き合いがたいものですし、またある状況で、人がなぜそんなに怒りを出すのかを理解することもまた、次に怒りをコントロールし、処理するのに役立ちます。

たとえば、友達に軽くあしらわれたようなときに極端にかっとなるとします。現実の出来事とは思えないような怒りを出すのなら、それは奪感、力量不足感を感じた別の場面のことを想起したためかもしれません。

現在の出来事が、こうした過去の感情、不安定さ、いわば地中に埋まっている地雷を刺激、強化したのです。おそらく反応の25% は現在の状況への、そして75% はずっと昔に抑圧した感情への反応でしょう。

同様に、自分の人格を正しく洞察することができれば、怒りやうつもより良くコントロールできるようになります。そうたとえば、循環気質性人格 の人が自分の操うつパターンの洞察を得れば、そしてどのくらいの頻度で人に拒否されたと感じて腹を立てるかがわかれば、次からは不適切な怒りをコントロールできるようになります。

また、強迫性人格、完全主義者の人が、過剰に厳しい見方で人(また自分も)を見ていることに気づけば、今後は不適切な怒りをコントロールできるようになるでしょう。ヒステリックな人が自分が過剰に感情的になる傾向があることに気づき、一瞬のうちに敵意を抱くことを理解すれば、不適切(自己中心の) な怒りをコントロールする助けになります。

個人の子ども時代の洞察や、それが現在にどう影響しているかということの洞察は、現在の怒り、うつを克服するのに大きな助けとなります。同様に、現在の人格傾向の洞察もまた、怒り、うつの克服の助けとなります。しかし、注意しなくてはならないのは、洞察は危険でもあるということです。

本人が処理できない状態のときの急激な洞察は危険です。洞察をあまりに急激に行なった場合、現実の痛みを持ち抱えるために混乱してしまうこともあります。こうした状態のときには、彼らは非現実のなかに生きるため、洞察は遮断されています。

洞察は注意深く与えられ、用いられなくてはなりません。

2.怒りを口に出してみる

もし自分の怒りが適切だと確信できるなら、この怒りを何とかしてロに出すことです。そして、相手と仲直りをしましょう。私たちが相手に怒りを持っていなくとも、相手が自分に怒りを持っていれば、やはりその人のところに出向いて行き、仲直りすることは私たちの責任だと言えます。

そうするには、大きな勇気と豊かな変が必要です。私たちが怒りを口に出す心理的な利点を以下にあげてみましょう。

  1. 怒りを抑圧して、なぜこんなにイライラしたり、落ちこんだりするのかといぶかるのでなく、
    私たちが真実、すなわち自分が本当に怒っていることに気づくのに役立ちます。
  2. 怒りを口に出さずにだれかを許すことは可能ですが、怒りをその人の前に出すことで、たとえ相手が私たちの怒りが不適切であると考えたとしても、ずいぶん楽になります。相手がどんな反応をしようとも、私たちは相手を許さなくてはなりません。人の罪のためになぜ自分がうつを患わなくてはいけないのでしょう? それはばかげています。怒りを口に出して、相手が許しに催するかしないかにかかわらず、相手を許すべきです。
  3. 私たちが怒りをうまく口に出す(真実を言う)ことができれば、相手に問題を自覚させることができます。それには怒りをうまく口に出さなくてはなりません。怒りを口に出す意図はつねに相手と仲直りするためであるべきで、けっして恨みを晴らすためのものであってはなりません。
  4. 怒りをうまく口に出すことは、結婚や友情をよりいっそう親密なものにします。怒りを口に出さないと、人間の本性上、受動攻撃的な(そして普通、無意識の)方法、たとえばふくれっ面、だらだらと後回しにする、夕食を焦がす、セックスの場面になると頭痛がする、遅く帰宅したり、遅くなることを電話しないなど、言葉以外の方法で怒りを見せるはめになることはほぼ確実です。
  5. 怒りをうまく表すと、相手はたいていの場合、私たちが、(a)率直で、(b) 感情をきちんとコントロールしていて、(c) 責任もって怒りに対処しているために、以前にもまして私たちを尊敬するようになります。
  6. ゴシップになるのを防ぎます。自分が怒りを感じているのにその相手に怒りを表現しないと、第三者にその人のことを言いつけたくなる誘惑が圧倒的に大きくなります。衝突を解決する、あるいは少なくともオープンに衝突を認め合えば、私たちが相手のゴシップの種になることも防げます。

ここでふれたことを度を越して実行されないように、ひとつ明らかにしておかなくてはいけないことがあります。

つまり、少しでも怒りを感じたときは、すべてその怒りを口に出すようにしなさいと言っているのではないということです。この点は自分の判断で、現実的であるべきです。

たとえば、アメリカの大統領が何か自分の気にいらない意思決定をしたのがちょっと腹立たしいからといって、大統領に電話したりはしないでしょう。上司に怒りがあるなら、そしてそれを口に出すことによってあなたがクビになるなら、上司にではなく、だれか別の人に話を聞いてもらって、上司を許すための助けを得るようにしたほうがいいでしょう。

またある場合は、上司にうまく怒りを伝えたり、大統領の決定事項に対して抗議の電報を送ったりすることが極めて適切な場合もあるでしょう。

要するに、自分の判断を使って行動することです。上司への怒りを、のちに妻と話し合うことで問題の本質に焦点を当てることができ、それによって許しを選ぼうと思えるようになるかもしれません。

ジョギングをしたりテニスボールを打ったりするなど、怒りを体で出すことで、怒りがより明確になって許しを可能にしてくれるでしょう。

ただし、運動はいい方法ですが、運動だけに怒りを出さないように注意してください。フットボールのようなスポーツを見ることでも、象徴的に怒りの一部分を出す助けになります。しかしそれだけでは十分ではありません。

もし恨みを長い間抱えていれば、うつになるのはこ当然です。脳セロトニン、ノルエピネフリンも、「恨みのレベル」が長期に、多量になれば枯かつ渇してしまいます。

その期間と量には個人差があります。怒りを口に出す2つの対称的な方法についてふれましょう。怒りを表現するには2つの極端な方法があります。ひとつは攻撃的、もうひとつは受動的な方法です。自分が怒りで攻撃的になっているとき、私たちはその感情を自分から出して、それをだれかを犠牲にして吐き出します。

相手の性格、個人攻撃をするのです。もうひとつの極端な方法は受動的な方法で、その場合、私たちは自分が感じるようには表現せずに、たとえばものごとをだらだらと先のばしにするとか、だんまりを決めこむとか、いい加減な仕事ですませるとか、人に自分の生き方を任せて、かつ同時にそれを恨むとか、本当はNoと言いたいのに意に反してYesと言ったりといった、無意識の受動的操作によって怒りを出します。

どちらの極端も健全ではありません。健全なバランスは、アサーティブであることです。すなわち、率直であるということです。アサーティブだと、感じるように感情を表現し、かつ愛と適切な方法をもって言いたいポイントを伝えられます。

YesはあくまでもYesで、NoはNoなのです。自分が立ち上がるべきもののために立ち上がり、大切だと思うことを求めます。

例を出すとわかりやすいでしょう。だれかが私たちの感情を傷つけたとします。私たちが攻撃的だと、相手を個人攻撃して、その人を侮辱するようなことを口にすることで相手の人格を攻撃します。受動的なら、何も言いはしないのですが、単にこのことに関してふくれっ面を見せる(そしておそらく本人のいないところで陰口をたたく) でしょう。

ではアサーティブならどうかというと、本人のところへ行って、このように伝えます。「あなたが言ったことで怒りを感じているけれど、何とか話し合って解決したいので、時間をとってくれませんか? 」となります。どんなに怒りを口にしても、許さなくてはならないことを忘れないでください。許しは意思から始まる、選択の問題です。そこに達するまでに時間がかかるかもしれません。感情は容易に水に流せるものではありません。

私たちのコンピューターをプログラムし直すには時間がかかります。感情を再プログラムするのも同じです。しかし、許すのだという意思はすぐにおこせます。ここが大切なところです。

また、許しはすべてのあやまちを帳消しにすることでもないということも大切です。そうではなく、だれかの罪状に攻撃をしかけないということです。もし許すことがすべてをなかったことにして忘れることだと考えるなら、大変なことになります。許すとは、人の罪をもはや問わないよう心に決めることを意味するのです。基本的に怒りと許しの村象である相手は、五つのグループに分けることができます。

  1. まずは親です。親への抑圧された怒りはよく見られます。私たちもまた、子どもを育てるの
    にミスを犯した親を許さなくてはなりません。親が私たちの許しに催するか、しないかは別としてです。
  2. 次に、私たちは自分自身を許さなくてはなりません。人に腹が立つのと同様に、あのときああすれば、こうしたらよかったのに… と自分に怒りを抱きます。人に対するよりも自分自身に批判的で、厳しくあたります。過去のミス、罪については自分を許さなくてはなりません。
  3. 3番目に、私たちは神への抑圧された怒りと向き合わなくてはなりません。神を許すのではありません。そうではなく、神への抑圧された怒り、苦い感情を持っているかもしれないということです。無意識に内← 、次のように言っているかもしれません。「神がもし本当に私を見守っていてくださるというのなら、あの状況だって防げたはずだし、何とかしてくれることができたはずだ」と。私たちは神への怒りを告白し、それに関して神と話をし、何とか折り合いをつけなくてはなりません。
  4. 4番目に、伴侶への抑圧された怒りと向き合わなくてはなりません。伴侶がなしたあやまちを許す必要があります。だれでも2人の人間がいっしょに住むと、多くの怒りが出てくる状況がおこり、怒りが数年間にわたって蓄積されます。うつを防ぐには伴侶を許す必要があります。
  5. 5番目は、その他の人々です。このグループには若いころの仲間たちなども含まれるかもしれません。多くの状況がおこって、抑圧された怒りがまだそのままになっている場合があるでしょう。怒りを告白し、相手を許す必要があります。

怒りをコントロールするいい方法のひとつは、成長を続けることです。成長すれば、怒りの多くがおのずと解消され、よって、私たちはより幸せで健康な人間になれます。怒りを分析した結果、怒りが不適切だった(自分の自己中心性、完全主義、疑惑ゆえのもの)とわかったなら、不適切な怒りを口に出すことはおそらく必要ないでしょう。しかし、不適当な怒りでも口に出すことが役に立つこともあります。

その例を見てみましょう。「○○さん、しばらく前まで私はあなたに怒りを感じていました。それでそのことに関して祈り、分析してみたのです。2時間ほど考えてみたところ、自分の完全主義が手に負えなくなっていたことに気づきました。あなたが完蟹であることを期待し、すべてを私の期待どおりにあなたがしなかったことに腹を立てたのです。

そんな私を許してくれますか? あなたが私を友人として求めてくれるなら、私のこの心の狭さにがまんしてもらうことになるかもしれません」。前述したように、不適切な怒りを出すもっとも良い方法は、不適切な怒りの元(わがまま、完全主義、疑惑) を断つことです。

3.報復したい、という気持ちを手放す

怒りをとどめておく(恨みを持つ) 無意識の動機はたったひとつしかありません。それは復讐です。最近、ある患者が過去3年間のうつの原因をさぐろうとオフィスにやってきました。「3年前、つまりうつが始まる前に、だれかに怒りをためていましたか? 」と聞くと、最初はその質問に驚いていた彼が、考えて1分もたたないうちに怒りを表に出し始めました。

首にはできもののようなものがいっぱいできていて、赤くなっており、瞳は開き、指はだんだん力が入って拳になっていきました。

彼は3年前、彼がやってもいないのにカンニングをしたと大学の仲間たちの前で決めつけた女性教師のことを、罵言を含め、明らかな敵意をみなぎらせて語りました。

「その教師をなぜ許さないのですか? そうすればうつが良くなるのに」と聞くと、彼は怒りながら「そんなこと絶村にあり得ませんよ。死ぬまでけっして許せませんね。許す価値もないですよ」と言いました。そこで少し、そのことがいかにばかげているかを指摘するのに、少し刺激を与えるのが適切であると思われました。

それで「いやあ、たいした仕返しですねえ。そのために3年間もうつ状態だなんて。はたしてその価値はあるんでしょうか? そもそも彼女はあなたのこと、覚えてますかね? 」と言いました。ここはうつのメカニズム(恨みを抱くとその人自身の中でどんな生物化学的変化がおこるか) を彼に説明するのにも絶好の好機でした。

教師を許す(彼女が実際許しに催しないにもかかわらず) ようになると、これまで3年もおおいかぶさっていた彼のうつは、ほんの数週間で消えていきました。復讐は愚かな動機です。個人的復讐はまったく不必要、かつ愚かです。復讐するか、恩寵を見せるかは神が決めることです。私たちの出番ではありません。神の邪魔をしないことです。

私たち人間は、いろいろな方法でたとえば人を裁いたり、復讐しようとしたりして、人生の半分を神を演じようとしてすごします。なんと愚かなことでしょう。もちろん人間は少しばかり動物より頭が良くて幸いですが、自分をあまりに落ちこませるあまり、自殺するのは人間だけなのです。

さて、使徒パウロがローマ人への手紙で、復讐について言っていることを見てみましょう。だれに対しても悪をもつて悪に報いず、すべての人に村して善を図りなさい。あなた方は、できるかぎりすべての人と平和にすごしなさい。愛する者たちよ、自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りにまかせなさい。

なぜなら、「主が言われる。復讐は私のすることである。私自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食ゎせ、乾くなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火をつむことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさヽ一〇しY相手が間違ったことをしたときだけ相手を許し、自分がミスを犯したときに自分を許しさえすれば、私たちはけつしてうつの苦しみを味わわなくていいのです。まとめましょう。怒りに向き合うには3つの方法があります。

  1. 自分の怒りが適切か、不適切かの正しい洞察を得る
  2. 重要で、適切な怒りを口に出し、就寝前に許す
  3. けっして人に仕返しをしない。

多くの読者がこの原則を実践してくださることが私たちの願いです。幸福は自分で選びとるものだからです。