あらゆる人格タイプのうち、他のどのタイプよりもうつにかかりやすいタイプがひとつあります。それはいわゆる「いい子」たちです。
自分を犠牲にして、頑張りすぎることが多く、まじめでそしてかなり宗教的なタイプです。精神科医はこのタイプを強迫性人格と呼びます。
一般的には、完全主義者、A型人格、仕事中毒、献身的召使などと呼ぶことがあります。
テストを行なった医者の90% 、聖職者の75% がこの強迫性人格の多くの要素を備えていました。弁護士、ミュージシャン、エンジニア、建築家、歯科医、コンピュータープログラマー、その他の専門職も強迫的傾向を強く持っています。
これはおそらく医師、歯科医、ミュージシャンがもっとも自殺率が高いことの原因と言えるでしょう。さらに宣教師もまたよくこのカテゴリーに入ります。
この結果に、多くの人は驚くでしょう。勤勉でなくわがままで、あまり社会や人のために役に立つとは考えられない人があふれる世の中で、社会で献身的につくしている人たちに一番うつや自殺の傾向が多く見られるとはどういうことなのでしょう?
人間の深い「無意識のダイナミクス(力動)」を研究した人は、うつは自分で選択しているものであることを認識しています。
自殺もしかり。そして幸福も自分で選んだ結果なのです。うつにおちいるこうした献身的な人たちは、私たちと同じく個人的な欲求と戦っているのですが、完全主義者の個人的な欲求は微妙でずっとわかりにくいのです。
彼らは週に80~100時間、人のために働き、しかしそのために、自分の妻や子どもたちをなおざりにしています。自分の感情は押しこめて、コンピューター化されたロボットのように働いています。
愛や共感で人を手助けしようとしているように見えますが、実は自分の不安さを無意識に埋め合わせようとしているのであり、また世に認められたいという強い願望と完壁でなければならぬという欲求を満たす手段としてひたすら働いているのです。彼らは自己批判的であり、内部の深いところでは劣等感を感じ、本当の自分がいないと感じています。
こうした人たちは、中年になって怒りが出てきます。神には、あまりに多くを期待されすぎているとして、また家族、同僚にも同じ理由から怒りを持ちます。子どもたちからは反抗的な態度をとられ、そして自分自身が完壁でないことに対しても、怒りに圧倒されるようになります。そして深刻なうつになります。
真実への洞察が欠如しているために、彼らはかなりつらい痛みと絶望感を抱え、気弱になると自殺を図ったりします。本書が、こうした問題に対して貢献できればと願い、祈るものです。
うつは貴重な時間を無駄にします。自殺はあとに残された人にとてつもない影響を与えます。本章では、いかに完全主義(強迫性人格) が子ども時代に養われたものかを示す貴重な研究を分かち合いたいと思います。
そして多くの完全主義的仕事中毒者らの無意識レベルにある心のダイナミクスについてふれたいと思います。
まず、もしあなたが妊娠中の女性で、完全主義の子どもを産みたいとしたら、以下のようにすればいいでしょう。
精神疾患の診断・統計マニュアルによれば、強迫性人格は「過剰に厳格で、生真面目、過剰に良心的、義務感が強く、なかなかリラックスできない」人の診断名です。もしこれが進行すると、状況は次のようになります。本人が止めることのできない考え、欲求などがひつきりなしにおそってきて、コントロールが効かない。本人は突拍子もないと思いながらも、ある特定の言葉、考えなどが反復して止められない。行動面では、単純なある動きから、手を洗うことがやめられないなどまでさまざかんすいまな様相を呈する。
患者がこの強迫行動を完遂できないとき、または自分ではコントロールでけねんきないことを懸念している場合に、不安とイライラが見られるようになる。
強迫的な子どもが育つ13のポイント
- いつも口先だけ、話ばかりで、実際に体では動かずに、けっして子どもの言うことに耳を傾けない。
- 子どもに完全なエチケットとマナーを期待する。ミスを許さない。
- 内向的で、他人と健全にやりとりをする姿を子どもに見せない。
- まわりの人に極めて批判的。牧師など聖職者、近所の人たち、夫、そして何よりもその子ども本人に対して。
- 実にいやみな人間として振舞う。
- 夫、子どもを支配する。
- 他の子どもよりもつねにすぐれていることを要求する。
- 自分自身ではこれといった信仰を持たず、子どものおじいちゃん、おばあちゃんの信仰をあれこれ批判する。
- 子どもに父親を尊敬するように言って、実際は夫をないがしろにする。
- 子どもに12ヶ月めで完全におむつがとれることを期待する。
- 将来のための貯金と称して、常識を越えた守銭奴になる。
- 法律の基本方針ではなく、条文そのものの遵守を強調する。規則をごく厳格にし、例外をけっして認めない。
- 子どもの性的関心を恥ずかしいことだと決めつける。
強迫的になる子どもの親は、どうやらこうしたルールに従っているようです。しかし、ある程度の強迫性は人生で有益であり、これによって勤勉になったり、良心的で道徳的な行動をとることが可能になるという側面もあります。
私たちがテストを行なった医師と医学生の大半は、いくつかの強迫性人格を示しています。まじめに取り組まなければ、医学部や開業医の厳しい要求をくぐり抜けることはできないのです。また、多くの神学生、牧師も極めて強迫性人格的です。使徒パウロにも何らかの健全な強迫怪人格傾向があったようですが、不健全なものは克服しなくてはいけなかったことでしょう。しかし親が前述の13のリストを用いて子どもを育てたなら、強迫性人格はコントロールできなくなってきます。
完全主義者の内的心理
前述の方法にすべて従って、過剰に不安で完全主義的な子どもを育てたとします。その子が大きくなって結婚し、大学を主席で卒業しようとしています。
この子をは完全主義 として、大人になった彼の無意識の心理を探るとしましょう。
まず、何をするにも完全主義です。過剰に責任感が強く、良心的で、働き者です。リラックスできず、自分自身やまた自分に近い人たちに厳しく接します。自分に厳しいため、また良心があまりに強いために、落ちこみやすくなります。
これまで一生懸命頑張ってきたのに、けっして十分やったとは思えません。何事にも精魂を使いはたしてしまう傾向があります。経済的には成功していますが、内側でもっと頑張れと自分に言い聞かせているので、けっして満足しません。
また、冷たい人に見えます。事実だけが大切で、感情には無関心の傾向があります。彼には、感情はわからないのです。また、彼にとって感情は事実よりコントロールが難しいのです。そして、は自分自身、自分の考え、そして近くの人々を支配・コントロールしたいという強烈な欲求があります。
このため、彼は事実を重んじ、感情を避けるために無理をしてでもものごとを理性化します。これは不快な感情だけでなく、ほんのりとした暖かい感情についても同じです。なぜなら暖かい感情もまた彼にはコントロールしがたいからです。コントロールできない感情は、ただ不安感を増してしまうので、そうなると今度は感情を感じないよう感情を避けるのです。
つまり、厳格なコントロールを維持することで、自分が内奥で感じる感情を抑えておくのです。こうした不安感を抑えきれないときに、うつがおこります。いつも人のいいなりで、従順です。でも彼を引っ張っているのは怒りなのです。
そして従順と反抗がときに衝突します。この怒りを感じないですむとき、今度は強烈な恐れが出てくるのです。これは権威への恐れで、この恐れが即座に従順さにひき戻すのです。
この恐れは、子どものころに母親に怒りをぶつけて拒絶をくらったことを想起させます。そして、この恐れが、まじめで、良心的で、いい人といった彼の傾向をもたらすのです。
これらは、外見的体裁は良いとしても、健全な源から出ているのではありません。彼の自己肯定感は、条件つきでのみ親に受け入れられたことがベースになっています。条件つきの受容は、彼に幼児期の体験を想起させます。できて当然と期待され、その期待を達成したときにのみ、愛情が与えられるものと思ったのです。
こうしたダイナミクス(力動) がジ極端な完全主義者にし、けっして自分自身に満足せず、つねに内側から自分に攻撃をしかけることになり、よって深刻なうつがおこりやすくなるのです。
大人になると、神も含めた他者との関係に不安感をおぼえます。親から受けた愛情は条件つきだったため、神に対しても同じように見てしまうのです。信仰に疑問を感じることがよくあり、また自分が救われることに疑いを抱いています。
自分が神に拒否されるのでは、という深い不安感と恐れをコントロールします。でも、実はは秘密裏に主を求めているのです。なぜなら、神は無条件では自分を受け入れるはずがないと感じているからです。
自分自身や妻に批判的で、この批判的な性格が彼らに影響を与えます。この自分の批判的性質ばかりか、強烈な怒りによっては内奥から裂かれています。ほんの少しを見るだけで、彼がいかに怒っているかがわかります。それは顔の表情や動き、固い姿勢に現れているのです。こうした強迫的な人が普通考えるのは、自分の将来についてです。
いつも未来の目標に向かって計画を立て、頑張っています。けっして現状に満足しません。つねに自分にいろんなことを課していきます。人は逆のタイプの人とひき合う傾向があるので、妻はおそらく彼と反対の性格なのでしょう。妻はヒステリックでさらに激しく現在の感情に左右されます。
うつが進むにつれ、彼の思考は未来から過去へとシフトしていきます。そして、過去のミスや失敗を大いに気を病むようになります。
自分を防御するのに使う手がいくつかあります。そのひとつが「孤立」で、自分の気持ちと感情を孤立させます。彼はまず自分の感情にほとんど気づいていません。葬儀のときですらこの孤立を用います。取り乱すことなく落ち着いた装いで葬式をやりすごし、しかし内側では深くひき裂かれているので、のちにうつがおこります。
もうひとつの防御メカニズムは、「帳消し」です。罪悪感でいっぱいで、犯したミスをもとに戻せないものかと思っています。この罪悪感を帳消しにしようとする(取り消そうとする) 自分の内側の動機に彼は普段気づいていません。
無意識に使う別の防御は、本当にしたいことのまったく「逆をする」ことで、衝動、感情を守るのです。
たとえば、自分が抑圧している性的欲望を打ち消すために、ふしだらな性行為を一掃するキャンペーンの先頭に立ったりします。あるいは女性といちゃつきたい自分自身の願望を妻に投影して、妻が他の男といちゃついていると不当に責めたりするかもしれません。
こうした防御行為によって、とりあえずはうつにならずにすんでいます。自分の怒り、恐れ、罪悪感、罪深い欲望に気づくと圧倒されてしまうので、こうして自分をあざむくのです。本当に必要なのは、精神療法など、人の助けを借りて変わり始めることなのです。
そして、自分自身の真実に責任もって対処することを学ぶことなのです。まだほかにもたくさんの無意識の行動をしているでしょう。彼の不安をコントロールし、人との親密な関係は感情をかきたてますが、感情は彼にとってはまったくコントロールしにくいものなのです。
おもに3つの懸念事項を抱えています。それは、時間、ほこり、そしてお金です。子どものころ、いつも母親に時間を守るよう言われていました。寝るときも、トイレに行くときも、いつも母親に時間にルーズにならないよう言われ続けていました。こうした幼児期の体験は深く刻みこまれ、大人になるまで持ち越されているので、いまだにいつも時間を気にします。
またお金のことも気になります。お金は地位とパワーをもたらしてくれるからです。さらに、頭の中では、ほこりは自分が無意識に抑圧している罪深さを象徴するので、非常に気になるのです。
だから、妻には家を隅から隅まできれいに掃除をするよう要求します。罪悪感をかなり感じるときは、何度も手を洗います。しかし、なぜ自分がこのような行動をするのか気づいていません。不安や無力感、絶望を感じています。ことさら彼は、不確実な世の中で不安を感じます。こうした不安定感はコントロールできないので、道にコントロールをしたいという過剰な要求を増大させます。
この不確実な世で自分の不安感をコントロールするために、偽りの全能感を身につけ、極めて自信たっぷりにふるまい、実際そうであるかのように自分や同僚たちをうまく納得させます。また知的に何でも知っていたいという強い欲求を持っています。
すべてのものごとをコントロールできると感じていたいのです。しかし、自信たっぷりの見かけとはうらはらに、意思決定がなかなかできません。間違った選択をしてしまったら大変だからです。すべてに関して真実がほしいのです。それには神学の分野も入ります。神学的に、少しでもはっきりしないことがあると、うつが押し寄せます。彼がよくいろいろな哲学論議にふけるのは、責任逃れの方法なのです。
たとえば、彼は良き父、良き夫とは何かということを語ることができても、実際そうなることは避けるのです。普通非常に時間に正確で、秩序正しく、こぎれいで、良心的な人間ですが、ときにまったく逆の性質を表すことがあります。
たとえば、無精ひげをはやし、良心を欠いて、無責任で、時間に遅れてきたりする人間を演じたりします。
前述したように、完全主義は健全な動機によるものではなく、権力への恐れによるものです。そして非完全主義者の性格は、従順でなくてはならないことに対する反抗的な怒りによるものなのです。
かならずといっていいほど、いつも感情より事実を強調します。彼は頭で感じよう としているのです。感情を避けるために、理性のレベルで人と話そうとします。いつも頑固です。親に対して頑固だった幼年時代に、この性質を学びました。
以上をまとめると、内面からつき動かされているのです。不安をコントロールするために、彼は多くの防御策をめぐらすのですが、その他多くの強迫性人格の例にもれず、最後にうつが現れます。大いに心配し、彼の厳格なライフスタイルがもはや彼の強烈な内なる衝動に十分処理できなくなったときに、うつがおこってきます。内面のダイナミクスをよく検討すると、以下のような多くの強迫傾向が見つかることでしょう。なかには有益な資質もあり、それは彼が一流の専門職に就くのに役立ちます。しかしその他の資質は不健康で、たいていは彼をうつにして終わります。
強迫性人格(男性、女性)の特徴
- 完全主義
- きれい好きできちんとしている
- 責任感が強い
- 細部にこだわる
- いい仕事をするが、働きすぎる
- リラックスできない
- かんしゃく持ち、怒りつぼい
- こだわりが強い
- 思考の硬直
- 柔軟性がない
- 感情ではなく事実に興味がある
- 冷たい感じがする
- 外見は安定しているように見える
- (ときに) 反権威主義
- 従順と反抗のはぎまで悩んでいる
- いつも何かに憤りを感じている
- ときに反村の気質を示す:良心的/ なげやりな態度、秩序正しい/ だらしないない
- おもに3つのことが気にかかる ほこり(いつもきれいにしている)、時間(いつも時間を守る)、お金(安心感が必要)
- 自分や周囲の人々をコントロールするパワー願望がある
- 強烈な競争心
- 感情を他人に見せない
- 論理的
- 魔術的思考(自分は現実よりもパワーがあると考える) を持つ
- 喜びをあと回しにする(無意識の罪悪感)
- 性生活はマンネリ化
- 甘えの関係を欲する
- しかし同時に依存的関係を恐れる
- 無力感を持っている
- ものごとを決心できない
- 些細なことが気にかかる
- 怒りをかくす
- 緊張して握手をする
- 端に意志が固い
- 自分の誤りを認めようとしない
- 他人との衝突を避ける
- 極度の倹約家
- 質素で規律正しい
- 粘り強く頼りになる
- すべてを知っている時のみいい気分になる
- すべてのことに究極的真実を求める
- 見かけは強く、しっかりしていて、断固と頼りになりそうに見えるが、実はなかなかものごとが決められず、不安で、ためらいがち
- 完壁であることを装う
- 問違いを指摘されるのが怖い
- 確実さを期すためにドアのロックを何度もチェックする
- 恋愛では相手の感情はコントロールできないため、恋愛関係に注意深い
- 怒りは人との距離をおくので、暖かい気持ちよりは容易に表現できる
- 強烈な集中を要する作業が得意
- 親は強迫的で、献身を強要した
- 親は最低限の愛情しか注がなかった
- 子どものとき、条件つきで受け入れられた
- すべては白か黒かという画一的な思考方法をする
- 社会の不確実性を克服するために、超人間的業績を達成しょうと頑張る
- 自分の決心がつかないところが大嫌い
- 極端な反応をする傾向がある
- 自分の限界を認めることは、情けないと思っている
- 儀式好き
- 結婚になかなか踏み切れない
- 問題を先送りする
- 死について考えるのを避けようとする
- 自分はめったに人をほめないのに、相手からは最大限の賛辞を求める
- 結婚生活で家事を分担しないで自分の最低限の持ち場だけをやる
- 結婚ではほとんどのことを相手にかわって考えてあげる
- セックスは自発的でない
- ものごとの整理が大好き
- 慢性的にいつも心配ばかりする
しめくくりとして、罪悪感について少しふれるべきかと思います。罪悪感は蓄積された怒りの一形態であり、よくうつの原因となります。
罪悪感は自分への怒りです。完全主義者は罪を犯したときに「真の罪悪感」を抱くだけでなく、「偽りの罪悪感」も持っています。そしてこの本物と偽りの罪悪感では大きな違いがあります。
フロイドは、すべての罪悪感は偽りの罪悪感であり、罪悪感自体がつねに悪いことだと考えていたようです。多くの精神科医は、罪悪感はつねに不健全だというフロイドの考えに賛成していました。
しかし医師や専門家は反対の意見です。真の罪悪感とは、自分が神の道徳律を犯したという「内なる不快な気づき」です。これはひとつには信仰によって、また自分自身の良心によってもたらされます。
この良心がフロイドのいうところの超自我です。私たちの良心は、親から教えられたことや、親が実践していたこと、教会が教えたこと、教会の信者たち、友人、教師の意見など、多くの環境の影響によって形成されます。
もし聖書を勉強したなら、聖書の教えによっても私たちの良心は形成されます。しかし、私たちの良心はよく間違います。未熟な良心を持った人のなかには、間違ったことをしてもそれが間違いだと気づかない人がいます。
その場合、良心にさいなまれることはありえません。それとは対照的に、すべては罪だと教わった人は過剰に発達した良心を持ち、神が間違っていると認めないものに対しても、良心がとがめられるでしょう。これが誤った罪悪感、つまり神や神の言葉がまったく非難しないものに対して罪悪感を持つことです。
真の罪悪感は貴重です。神が人間に罪悪感を与えたため、人は罪悪感によって自らの行ないを悔い改めることができるのです。間違ったことでなく正しいことをしたときに、私たちは神との親交を深めて、自分のことがもっと好きになるでしょう。間違ったことをすることは私たちの自己評価を下げることです。
正しいことをすれば、自己評価は大いに上がります。精神科医としての私たちの経験では、患者が罪悪感があると言った場合、実際その罪悪感は真の罪悪感であることが普通です。
彼らは罪を犯したから罪悪感を感じるのです。そして彼らがした悪いことを正しさえすれば、落ちこみも直せます。しかし信者の多くが、聖書がまったく非難していないことに罪悪感を感じると訴えます。
たとえば、誘惑を感じたといっては罪悪感を感じるのです。しかし、誘惑されるのは罪ではありません。その誘惑に居座ってそれに負けるのが罪なのです。
偽りの罪悪感のルーツを子ども時代に求めています。偽りの罪悪感の原因は、子ども時代の育てられ方にある。過剰に厳格な期待が親から課されると、過剰に厳格な超自我、良心だけが育つ。たとえば、過剰な非難、中傷、審判、文句ばかりを親に言われて育つ子どもは、自分がその期待にそえない場合、適切な期待が何なのかを知わいきょくらずに歪曲された思考を持つに至り、結果として子どもの罪悪感を高めることになる。愛情ときちんとした説明をもって与えられる適切で正当な罰は、罪悪感を取り除く。ほとんど励ましてあげたり、ほめたり、お祝いの言葉を言わない親もいる。
けっして子どもの行動に満足できないのだ。子どもが学校、遊び、スポーツなどでいかによい成績を出しても、もっとできるはずだと親は満足しません。このような親に育てられた子どもは、自分の自己肯定感がいかにダメージを受けているかを知らず、完壁以外はすべて失敗だと感じて育ちます。どんなに頑張っても、できるかぎり最大限のことをしても、罪悪感と劣等感を持ってしまうのです。
そして大人になっても神経症や偽りの罪悪感、低い自尊心、不安感に苦しみ、やることなすことすべてに、自分はダメだと悲観的な見方をするようになります。これが自分を責め、内側に向けられた怒りとなります。
この無価値感ゆえに自分で自分に罰を与えようとします。この怒りと敵意むくの混じった内的懲罰の報いが、かならずうつをもたらすのです。
また、心身症や不適切な行動などをひきおこしたりもします。
「偽りの罪悪感」に対する治療は、なぜ本人が罪悪感を持つようになつたかを理解し、自分の真の姿を評価することです。また罪悪感を抱く本人には、自分自身を非難する権利はなく、神のみがそうする権利があること、そして信仰を持つ人は審判と非難を神のみに委ねるべきであることを理解する必要があります。
そして現実的に到達可能な新たな目標を設定し、他の人と比較しないことが大切です。神が自分に期待していることと、自分の現在とを比較すべきです。神は私たちや私たちの子どもたちに、この世で完壁さを期待してはいません。私たちができるかぎり神の意思を求めることを望んでいるのです。
「正しいものは信仰によって生きるものである」と、また「人は信仰によって正当化される」と言っています。そして彼は、自分を救うための良い行ないよりも、おんちょう神の恩寵のほうを信頼するようになったのです。